米中衝突 日本はこうなる

「米中衝突 日本はこうなる」 池上彰著 SB新書 読破
台湾有事について知りたくてこの本を読み始めたのですが
書いてないなぁっと思ったら最後の30ページくらいに書いてありました。
台湾有事についてはトランプさんも沈黙してるみたいだし
あまりふれない方がいいみたいですね。
大まかにはトランプ関税について多くかかれていました。
グリーンランドが欲しいとかパナマ運河が欲しいとかも。
中国では不動産バブルがはじけたようで。
新書太閤記 10

「新書太閤記 10」 吉川英治著 講談社 読破
柴田勝家を破った秀吉は天下人に近づいた。
しかし、ここに徳川家康が立ちはだかった。
織田信雄が家康に援護を頼んだのだった。
秀吉の兵8万、家康の兵6万。
家康は小牧山に陣取って地の利を得た。
秀吉は中入りを願い出た武将にそれを許した。
間道を通って家康の本拠の岡崎を突く作戦である。
しかし家康ははやくそれに気づきそれを追い全滅させてしまった。
秀吉が家康の後を追おうとしたが家康はどこにもいない。
気づいた時には家康は小牧山に戻っていた。
これは、小牧・長久手の戦いといって秀吉が家康に敗れた戦いだった。
新書太閤記 9

「新書太閤記 9」 吉川英治著 講談社 読破
清須会議が終わると柴田勝家は北陸へ帰っていった。
そして冬が来た。
北陸は雪深く柴田勝家は北陸から出てこれない。
その間に秀吉は伊勢の滝川一益を攻めたりした。
しびれを切らして雪をかきわけて柴田勝家が出てきた。
柴田勝家は賤ケ岳に陣取った。
秀吉は岐阜の織田信孝を攻めていた。
そこで勝家配下の佐久間盛政は秀吉軍を攻めて最前線に残った。
勝家は佐久間にはやく戻ってこいと命令したが翌日戻ると返答した。
その夜、秀吉軍の大軍は岐阜から賤ケ岳まで戻ってきた。
佐久間はあわてて退却したが秀吉軍に追撃された。
そうすると秀吉軍の士気は上がり柴田軍は全軍が退却するハメになってしまった。
秀吉の友の前田利家軍は真っ先に退却してしまった。
こうして賤ケ岳の戦いは秀吉の勝ちで終わり、
柴田勝家は北陸の北の庄かな。その城で市姫とともに自害した。
市姫の三人の娘たちは秀吉の元へ送られてきた。
長女の茶々が秀吉の側室に入り、
次女は京極高次の正室になり、
末の娘が徳川秀忠夫人となって家光を生んだ。
それから、織田信孝は織田信雄によって自害させられたようだ。
そしての信雄は家康と接触を謀る。
AIは使ってないよ。。
池上彰の世界情勢2026

「池上彰の世界情勢2026」 池上彰著 毎日新聞出版 読破
トランプ関税ショック、その先にある世界編、
っということでトランプさんがやったことがいろいろ書いてありました。
池上彰さんの本も100冊くらい読んでいて、
池上彰さんの本が出ると全部買って読んでいましたが、
最近は金欠なこともありあまり買っていません。
インフレで本の値段も大分上がりました。
この新書タイプの本も前は千円で買えましたが、
1100円(税抜き)と大分高くなりました。
最近の単行本とかも税込みで二千円くらいします。
とても買えない。。。
新書太閤記 8

「新書太閤記 8」 吉川英治著 講談社 読破
備中高山城を水攻めしていた秀吉は信長の訃報を聞き、
翌日には毛利と和議を結んで明智光秀を討つために東へ向かった。
夕方には毛利にも信長が倒れたことが伝わってきたが
秀吉に恩をうっておくために追撃はしなかった。
毛利の安国寺恵瓊は信長の次に天下を取る人は秀吉だと前から見ていたのだ。
秀吉が中国大返しをおこない戻ってくると秀吉の元へ皆集まってきた。
明智光秀は信長を討ったが主をころした光秀の元へは人が集まってこなかった。
天王山あるいは山崎の合戦で秀吉は光秀を破った。
光秀は落ち武者刈りに会い竹槍で突かれてしんだと言われている。
光秀の首をもってきた人がいたが本当に光秀の首かどうかはわからなかった。
私は家康に仕えた天海が光秀ならおもしろいなと思っていますがデタラメらしい。
秀吉が光秀を破ったからといってすぐ秀吉が天下人になれたわけではなかった。
織田家の相続を話し合うために清須会議が開かれた。
三谷幸喜著の清須会議はおもしろい。
筆頭家老の柴田勝家は信孝を推したが
秀吉の主張がとおり信長の嫡男信忠の子の三法師が世継ぎに決まった。
秀吉と柴田勝家の対立は深刻だった。
市姫は柴田勝家の妻になったようだ。
新書太閤記 7

「新書太閤記 7」 吉川英治著 講談社 読破
武田勝頼を滅ぼし、大阪から本願寺を退去させると
一見平和になったかのように見えた。
家康に駿府を与え、甲信には織田軍が入り、
群馬の最前線では滝川一益が北条と戦っていた。
北陸では柴田勝家が上杉と戦っており、
丹羽長秀と織田信孝は四国に攻め込もうとしていた。
秀吉は毛利と戦っていて援軍を信長に求めた。
家康は上洛して接待を受けていたが、接待役は明智光秀だった。
しかし、明智光秀は信長の不況をかい、
接待役からはずされ秀吉の援軍に行けと命令された。
信長と明智光秀はうまが合わなくなっていた。
明智光秀は1万5千もの兵をもっていた。
それを光秀は信長の泊まっている本能寺にむけた。
前日に光秀が読んだ詩は、
ときは今 天(あめ)が下知る五月(さつき)かな
ときは光秀が土岐氏だったことにかけている。
ついに信長は明智光秀の謀反に倒れた。
各地に影響が出た。
甲信では織田軍は領地を守っていくことはできなかった。
最前線で戦っていた滝川一益は北条に敗れた。
北陸で上杉と戦っていた柴田勝家は北の庄まで退いた。
秀吉の元へも信長が倒れたことが伝わってきた。
備中高山城を水攻めしていた秀吉だったが、
毛利に信長が倒れたことを伏せたまま和議の交渉に入ることになるのだが。
新書太閤記 6

「新書太閤記 6」 吉川英治著 講談社 読破
黒田官兵衛が地下牢から助け出された頃、
竹中半兵衛の容体が悪くなりとうとう亡くなってしまった。
竹中半兵衛は諸葛亮のようでもあった。
秀吉がここまでやれたのも竹中半兵衛がいたからかもしれない。
まだ黒田官兵衛がいるからいいのだが、
晩年、黒田官兵衛は小禄しか与えられなかった。
そのことを人がいうと、秀吉は言った。
「官兵衛に大禄を与えたら日本をとられてしまうわ」っと。
またそれを聞いた官兵衛は自分の身が危ういと思い、
息子の黒田長政に家督をゆずってしまった。
そんなエピソードはともかく、
信長は甲信の武田勝頼を滅ぼしてしまった。
明智光秀が「我々も苦労したかいがありましたな」っといったところ、
信長は怒った。「おまえがどんな苦労をしたのか?苦労したのはワシじゃ」
といって、光秀を打ち据えた。