織田信長 読書記録 2026   りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

織田信長 全5巻 山岡荘八著 講談社 

下から書いています


■2026年3月23日(月)

「織田信長 5 本能寺の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

今まで信長自身が家康の援軍にきてくれることはなかったが、
やっと信長が長篠の戦いで援軍にきてくれた。
信長は数千丁の鉄砲と角材をもってきた。
角材で鉄砲隊の前に柵を作った。
武田勝頼軍は鉄砲隊の前に突撃を繰り返した。
当時の鉄砲は連射が出来ず突撃を繰り返せば勝てた。
しかし信長の鉄砲は3千丁。
千丁ずつの鉄砲が三段打ちで火を吹いた。
武田勝頼軍はほぼ全滅してしまった。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
信長は上杉には柴田勝家を総大将にして、前田利家、佐々成正などで備えていて、
守りの抑えに安土城を築いたが上杉謙信も卒中でシんでしまった。
松永久秀は謙信に期待して何度目かの謀反を起こしたがとうとう討伐された。
残るは大阪本願寺だけかと思われたが荒木村重が背いた。
荒木村重の部下が本願寺に米をまわしていてそれがバレたので
信長はそれを許さないと思ったのだった。
説得にいった秀吉の軍師黒田官兵衛は1年間地下牢に入れられることになった。
大阪の本願寺には毛利が米をまわしていた。
制海権も毛利が握っていたが、信長は鉄甲船を作り毛利水軍を破り制海権を得た。
荒木村重は城から脱出して逃げ本願寺は大阪から退去させられた。
四面楚歌だった信長もやっと落ち着き安心感が出てきた。
信長は甲斐信濃に攻め込み武田勝頼を滅ぼした。
この時、明智光秀が「われわれも苦労したかいがありましたな」といって
信長に「いったい誰が苦労したというのだ」といって折檻されたと書いた本が多いが
この本はそういう風には書いたなかったが光秀は折檻されて不興をかったようだ。
また光秀は丹後あたりの波多野兄弟を自分の母を人質にして連れてきたが、
信長は波多野兄妹をころしてしまい光秀の母はころされてしまった。
しかしその母というのは光秀の実の母ではなかった。
天下人になった信長は自分の母だといつわって敵を捕縛するのを許さなかった。
これでまた光秀は信長の不興をかった。
また近畿が平和になったので信長は家康を読んで接待しようとした。
家康といえば嫡男の信康に信長は娘の徳姫を妻に与えたのだがうまくいってなかったようだ。
徳姫が悪口を言ったのかいろいろ噂もあり、
家康の嫡男と家康の妻築山殿は武田に通じて謀反の疑いがあると切腹あるいは自害させられてしまった。
信長の言葉は絶対であり家康も逆らうことはできなかった。
信長の嫡男信忠より家康の嫡男信康の方が年上だったのが具合が悪かったのかもしれない。
家康も嫡男と妻をころされた恨みがあったと思う。
そんな時に家康の接待役を光秀がまかされ家康と光秀は長く話す機会があったはずである。
光秀は「もう信長様にはついていけそうもない。家康様も信長に恨みがあるでしょう」みたいな話はあったかもしれない。
そして光秀は家康の接待役をはずされ毛利と戦っている秀吉の援護に行けと信長に命令された。
京の近くに領土を持っていた光秀が鳥取の方へ領地替えになるという話も聞こえてきた。
森蘭丸に光秀の領土を与えるという話だった。
光秀には秀吉の援護に行くのに1万くらいの兵があった。
信長といえば数百人で本能寺に泊まることがわかっていた。
家康は大阪の方へ見物に行っているところだった。
明智光秀は「ときは今、あめが下しるさつきかな」っという詩を読んで
一万の兵を京で馬ぞろえがあると称して本能寺に向かった。
こうして本能寺の変は起きた。
秀吉は毛利と戦っていて、柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬あたりで北条と戦っていた。
明智光秀にとって絶好のチャンスが来たのだった。
家康が光秀の背中をおしたのか、足利義昭から催促されていたのか。。

  

■2026年3月21日(土)

「織田信長 4 天下布武の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

信長は越前の朝倉に攻め込んだ。
しかし浅井が信長に背いて信長の背後から兵をあげた。
信長は命からがら京へ帰ってきた。
しんがりを秀吉がつとめたはずだがほとんど書いてない。
信長と家康vs浅井朝倉の戦い、姉川の戦いで勝利するが、
浅井朝倉はあぶなくなると比叡山に逃げ込んでしまい
比叡山の坊主も武装して悪さをするので信長は比叡山を焼いた。
このころ、武田信玄が兵3万で上洛戦をしかけてきた。
家康の領土を通っていく。信長は3千の兵力しか送れなかった。
家康は果敢にも信玄に戦いを挑んだが大惨敗してしまった。
信玄の魚鱗の陣形に家康は鶴翼の陣形をとった。
鶴翼の陣は薄く、一つ敗れるとそれで終わりだった。
信玄は家康の支城を攻めていた。
毎晩、支城から笛の歌が聴こえてくる。
信玄もその笛に興味をもち聴いていた。
その場所をめがけて鉄砲が打ち込まれた。
鉄砲の玉は信玄に当たらなかったみたいだが、
鉄砲の音に驚いた信玄は卒中を起こしたようで亡くなってしまった。
信長も家康も危機を乗り切った。
信長は朝倉を滅ぼし浅井も滅ぼした。
信長の妹お市と三人の娘は保護された。
それから武田勝頼が家康領の長篠城を攻めていた。
家康は信長に援軍を頼み、やっと信長が援軍にきてくれた。
信長は鉄砲と柵を作る角材を多数用意してきた。
長篠の戦が始まる。

  

■2026年3月20日(金)

「織田信長 3 侵略怒涛の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

今川義元を破った信長は、人質から独立した家康と同盟を結んだ。
西は信長が、東は家康が治めようと誓った。
伊勢を滝川一益にまかせ、信長は美濃を取ろうとする。
しかし、美濃を取るには川向うの墨俣に城を築かねばならなかった。
佐久間も柴田勝家も失敗した。
そこで秀吉が墨俣に城を築くことになった。
野武士が世に出るチャンスだと蜂須賀小六を口説き秀吉は墨俣に城を築くことに成功した。
野武士が信長についたことは大きかったかもしれない。
美濃では斉藤義龍がシに龍興が後を継いだ。
龍興は女を侍らせて酒ばかり飲んでいた。
仮病を使って出仕しないものが多くなった。
織田側の調略も効いているようだ。
竹中半兵衛は龍興をいさめるため、たった16名で稲葉山城を奪ってしまった。
信長は美濃を半分やるから稲葉山城をもらいに秀吉に使者を出したが無駄に終わった。
竹中半兵衛は龍興に稲葉山城を返すと隠居してしまった。
龍興は竹中半兵衛を恨んで殺そうとするが秀吉が三顧の礼で竹中半兵衛を軍師に迎えた。
竹中半兵衛が味方になると美濃の武将の調略もすすみ、
秀吉と半兵衛は稲葉山城の裏手から兵をあげ、
信長も総攻撃をかけて稲葉山城を落とした。
信長は美濃を岐阜と改め天下布武をかかげた。
信長が岐阜を取ると濃姫のいとこの明智光秀が足利義昭をともなって士官してきた。
明智光秀は朝倉では4千500貫もらっていて、信長は1万貫で光秀をめしかかえた。
また足利義昭には細川藤孝がついていた。
細川藤孝や光秀は礼儀作法も良く知っておりこの二人にまかせておけば大丈夫であろう。
信長は近江の浅井長政に妹の市姫を嫁にやり京への道筋をつけると
足利義昭が信長を頼ってきてから3か月で京を占領してしまった。
足利義昭が室町幕府将軍となったが信長は何の官職も受けなかった。
信長は足利義昭のために二条城をたぶん作り、皇居も建て替えた。
そして信長は越前の朝倉を攻めるが、浅井長政の父久政の怒りをかった。
浅井と同盟を結んだ時に朝倉は攻めないと誓約を取っていたのだ。
浅井は今あるのは朝倉が同盟してくれていたおかげだった。
浅井長政と市姫はたくさんの子供を作っていて長政は市姫を愛していたが、
父久政と家臣たちは皆信長を攻めるという。

  

■2026年3月16日(月)

「織田信長 2 桶狭間の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

うつけと呼ばれた信長ではどうしようもない。
弟の信行に家督を継がせたい柴田勝家らは信長に謀反を起こした。
ところが信長は柴田勝家をさんざんなめに会わせこてんぱんにした。
信長が川遊びを良くしていたのもガキ大将たちと戦争ごっごばかりしていたのも遠乗りをよくしていたのも
今日のような実践に備えたものだったのだ。
柴田勝家はさんざんやられて信長の真価を知った。
うつけなどではなかった。神だ。柴田勝家は頭をそり坊主姿になって猛反省して信長にわびた。
しかし信行は反省もせず信長暗殺のことばかりを考えていた。
そのうち信長が病気だか怪我をして寝たきりだと伝わってきた。
信行は信長の元に病気見舞いに行った。もちろん刺すために。
しかし信長は仮病で信行をころしてしまった。
これで織田家相続争いは治まった。信長が家督を継いだ。
そのうち駿府の今川義元が上洛戦を起こしてきた。
尾張の信長はうつけと聞いて余裕ぶっこいて4万の兵で攻めてきた。
信長の兵は4千あまりだが砦に兵を出しているので動けるのは2千くらいか。
信長は籠城と見せかけるために台所奉行の秀吉に三河の方まで味噌買いに走らせた。
また信長と秀吉は祭りがあると踊りに繰り出した。
踊りのうまいものに布を与え、蜂須賀小六の野武士などに協力を求めた。
尾張の砦に今川勢が攻めてきた、松平元康(家康)も大高城を攻めて落としたのかな。
今夜は今川義元が大高城に泊まると聞いた信長はほら貝を吹かせて出陣した。
秀吉が信長の馬のくつわを取り熱田神宮に走った。
2千人くらい集まっただろうか。
そこへ今川義元が桶狭間で休んでいると情報が入った。
土地のものが新たな制圧者に米、食料、酒などをもってきたのだ。
蜂須賀小六の野武士がうまくやったものだろうか。
信長は狙うは義元の首一つと桶狭間を奇襲した。
服部子平太が一番槍をつけ毛利伸介が今川義元の首をあげた。
義元が倒されると今川軍は皆逃げて退いてしまった。
いたるところで祭りの踊りの時に渡した布が織田の旗として上がっていたのかもしれない。
この時岡崎城にいた今川の武将も逃げてしまい家康がやっと自分の岡崎の城に入れた。
この後、信長と家康は同盟を結び協力していくことになる。
一番手柄は桶狭間で義元が休んでいると知らせた梁田政綱で、
二番目が一番槍をつけた服部子平太で三番目が義元の首をあげた毛利伸介だった。
その後、信長は京に上り禁裏を訪ね、室町幕府将軍足利義輝に会った。
京はシ臭が漂いシ体が放置されているようなところだった。
公家や帝が貧しい生活をしていることを知った。
信長は天下を統一して京をキレイにして帝の生活も良くする目標を立てる。
秀吉は堺で400丁の鉄砲を買い付ける。

  

■2026年3月14日(土)

「織田信長 1 無門三略の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

うつけと呼ばれた信長がうつけでないとわかってくる様子がおもしろいです。
少女たちに相撲をとらせ、子分たちと畑の瓜を食い散らかしていく信長だった。
うつけなどなんとでも言え、自分の力で城一つくらい取れると思っている信長だった。
ただのうつけで終わるか天下を取るか。
信長の父信秀は結構若くしてしんでしまった。信長が家督を継いだ。
信秀の葬式の時、信長は信秀の位牌に香を投げつけ出て行った。
織田の家臣たちはあんなうつけではどうしようもない、弟の信行を立てるべきだと言った。
信長の守役の平手政秀は信長を諫め自刃してしまった。
平手政秀は信長に味方してくれていた唯一の人だった。
また信長は美濃のマムシの斉藤道三の娘を嫁にもらっていた。濃姫だ。
マムシの道三も信長の人物を認め美濃を信長にくれてやることになるだろうと言った。
しかし道三もせがれの義龍の謀反にあいしんでしまった。
信長も美濃に兵を出すが道三を助けることはできなかった。
道三がしに濃姫の価値もなくなり子供も生まなかったので、
信長は子供が欲しいと一度に妾を三人持った。
市場の針売り(秀吉)から竹千代に今川の嫁をもらって子供ができたことを聞いたのだった。
竹千代(家康)は尾張の人質になっていて捕まった信長の兄信広と捕虜交換をしたのだった。
家康は今度は今川の人質になってしまっていた。
信長は尾張を統一するのに苦労していた。
信長と行儀の良い弟の信行との対立が大きくなっていった。
柴田勝家などが信行側についていた。