秀吉 読書記録 2026 りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)
秀吉 夢を超えた男 上中下全3巻 堺屋太一著 NHK出版
下から書いてます
■2026年3月13日(金)
「秀吉 夢を超えた男 下」 堺屋太一著 NHK出版 読破
秀吉は信長が本能寺で明智光秀の謀反にあったことを知り、
毛利にばれる前に和議を結び明智光秀を討つために近畿に戻ってきた。
織田家はばらばらになっていたが秀吉の元へ集まってきた。
四国に渡ろうとしていた丹羽長秀と織田信孝とも合流できて光秀と戦って勝てた。
光秀は落ち武者刈りにあってしんだといわれている。
柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬で北条と戦っていて、
甲信では一揆がおこって無法地帯となっていた。
徳川家康はこの機に甲信を手に入れた。
織田家相続争いで秀吉は柴田勝家に賤ケ岳の戦いで勝って有利になった。
しかし織田信雄は家康に援護を求めて小牧長久手の戦いで秀吉は家康に敗れる。
ここで秀吉は伊勢の織田信雄を攻め和議を結んだ。
家康は秀吉と戦う名分がなくなり手を引いた。
なんとか家康を服従させたい秀吉は結婚していた朝日を離縁させて家康の妻にした。
それから母も家康の元におくりやっと家康に上洛してもらった。
家康は臣下の礼をとってくれた。
これで秀吉は九州まで制圧して関東の北条も滅ぼし会津まで行き東北も制圧下に置いた。
1590年に秀吉は家康を東海甲信から関東に移した。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国1
1569年に武田信玄に焼かれた秩父神社を1592年に家康が再建してくれた。
この頃に弟の秀長がしんでしまった。
秀吉は千利休も切腹させた。
シンプルなわびさびに徹した千利休の茶道と組み立て式の黄金の茶室を作った秀吉は合わなかった。
日本を統一した秀吉だがもう家臣に褒美で渡す土地がない。
平和になり士族もいらなくなりその不満を外征に向けるため朝鮮に出兵した。
明治維新の時も徴兵制ができて士族の不満を外征に向けるために征韓論がおこった。
秀吉は朝鮮は明まで道案内してくれて簡単に明を制圧できると思っていた。
大きな間違いだった。
秀吉とお市の娘淀殿(茶々)に子供が生まれ一人目は2歳でしんだが二人目も生まれた。秀頼である。
秀吉は何度も五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に誓紙を書かせ
秀頼を頼むといって亡くなった。
秀吉が織田家を立てなかったように秀頼にも天下がまわってくることはなかった。
秀吉に商売の仕方や帳簿のつけ方を教えてくれたがんまくこと石川五右衛門はつかまり釜茹での刑になった。
■2026年3月6日(金)
「秀吉 夢を超えた男 中」 堺屋太一著 NHK出版 読破
朝倉の元にいた足利義昭が信長を頼ってくると、
信長はあっという間に上洛して京を占領してしまった。
近江の浅井長政にお市を嫁がせていたこともうまくいった。
京では足利義昭のために二条城を作ってやったのかな。
朝廷の方にも献金してやったり館を作ってやったようだ。
室町幕府将軍に返り咲いた足利義昭は信長のことを父のように思うと言った。
義昭は信長に副将軍についてもらいたいと言ったが信長は受けなかった。
信長は堺などの支配権だけもらった。
商業に眼をつけていたのは信長だけだった。
それから信長は越前の朝倉に攻め込んだが、
近江の浅井長政に背かれ信長は退却した。
この時秀吉はしんがりをつとめが無事京に帰れた。
秀吉の株は上がった。
浅井朝倉と姉川の戦いとなるが徳川家康のおかげで勝てた。
そして武田信玄が上洛戦をしかけてきた。
徳川家康の領地を通っていく、家康は果敢にも信玄を攻めたが惨敗してしまった。
信長も3千の兵しか送ってくれなかった。
しかし武田信玄は病気で亡くなってしまい武田軍は退却した。
信長は信玄や浅井朝倉に信長を討てと手紙を書いていた足利義昭を追放した。
ここに足利幕府は終わった。
信長は浅井朝倉軍が逃げ込む比叡山を焼いた。
そして朝倉を滅ぼし浅井も滅ぼした。
浅井長政に嫁いでいたお市と3人の娘たちは保護された。
秀吉は北近江12万石をもらって大名へと出世した。
琵琶湖の東の今浜を長浜と改め城を築いた。
その城には琵琶湖の船を引き入れることができた。
また近江の国友村には鉄砲を作れる鍛冶がいて量産させることにした。
そして長篠の戦で鉄砲の力で武田勝頼を破った。
家康にとってはやっと信長が援軍に来てくれた。
しかし信長は家康の妻と長男信康に謀反の疑いがあるところさせた。
妻と信康には今川の血が流れていたので無理もない。
信康に嫁がせた信長の娘徳姫ともうまが合わなかったようだ。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
信長は安土城を築いて守りの要としたが上杉謙信は卒中で死んでしまった。
あとは大阪の本願寺が残るのみとなったが
早くから信長についていた摂津の荒木村重が謀反を起こした。
秀吉の軍師黒田官兵衛が説得にいくが1年間も地下牢に入れられた。
荒木村重の部下が本願寺に兵糧や武器をまわしていたのだ。
それが発覚したので信長を裏切るしかなかった。
また毛利の水軍が瀬戸内海の制海権をにぎっていて本願寺に物資を入れていた。
信長は最初の水軍の戦いで敗れたが鉄甲船を作り毛利水軍を撃破して制海権を得た。
これにより荒木村重は城から逃亡して黒田官兵衛は助けだされた。
本願寺も大阪を退いた。伊勢の一向一揆にも苦労したものだ。
そして秀吉が毛利と戦っていて備中高山城を水攻めにしていた時に信長の訃報が届いた。
本能寺で明智光秀の謀反によって信長がころされたのだ。
■2026年2月28日(土)
「秀吉 夢を超えた男 上」 堺屋太一著 NHK出版
尾張(愛知県かな)でサルと呼ばれた少年(秀吉)は、
義父とうまがあわず家を飛び出した。
父が残してくれた銭を針に変え各地をまわったようだ。
がんまくという者が教えてくれたものだ。
また今川領の松下嘉兵衛というものに仕えたが
納戸役までいったが尾張者だったり体が小さかったりしてせいで
いじめられて暇をもらって尾張に帰ってきた。
秀吉(木下藤吉郎)は信長に士官したいと思った。
またがんまくがとりもってくれて信長に士官を果たした。
がんまくはのちの石川五右衛門であった。
秀吉ははじめは柴薪奉行を勤めた。
帳簿のつけ方をがんまくが教えてくれた。
米を炊くにも薪がいる。秀吉は使い終わった火を消してまわって
焼け残った炭や木を持って行ったようだ。
信長も焼け残った木を見てサルもやってるなと思ったようだ。
当時は火をつけるのが大変で火種を管理する人が決まっていればいいと私は思った。
また蜂須賀小六などの川浪衆を使って柴や薪を安く買い占めたようだ。
蜂須賀小六などの仲を取り持ってくれたのもがんまくだったかな。
2年くらい柴薪奉行を勤めた秀吉を信長は気に入り草履取りにしてくれた。
草履取りになると各武将たちとも会う機会が増え情勢を聞いたりできたようだ。
馬に乗った信長についていくのも大変で他の従者に遅れないようについていけば良いとおもったようだ。
それから秀吉は足軽になり、やっと士分に取り立てられた。
戦いは一人で飛び出すのではなく槍衾をつかって団結することが大事だった。
今川義元が上洛戦を起こしてきたのはこの頃だろうか。
今川義元は前線の勝利を受けて余裕しゃくしゃくで尾張に近づいてきた。
信長はこの時を待っていた、ほら貝を吹き一気に出陣した。
うまく前線にたどり着いた信長はそこで梁田政綱の細作が
今川義元の本陣は桶狭間に向かっているという確かな情報をもたらした。
2万5千人の今川義元も各地の砦に兵を送っており、本陣には5千人くらいがいるだろうか。
信長の兵は2千5百くらいだ。勝ち目はある。
信長が今川義元の本陣に殺到した時には義元はもう逃げ支度をしていた。
服部小平太が一番槍をあげ、毛利新介が義元の首を上げた。
大勝利だ。逃げる今川勢を追って信長軍は皆たくさんの首をあげたようだ。
義元の首を上げた毛利伸介は500貫を加増で、
義元に一番槍とつけた服部子平太は1000貫の加増で
一番の褒美は義元の居場所を教えた梁田政綱で3000貫の加増を受けた。
このあと秀吉は組頭となり丹羽長秀のもとについた。
組頭になったので弟の小一郎秀長を呼び寄せて家来にした。
また組頭になったのでおねとの結婚もできた。秀吉25歳、おね15歳。
お城の崩れた石垣をなおしたのはこの頃だったかな。秀吉の手柄になった。
信長は美濃(岐阜)を攻略するため小牧山に城を移した。
秀吉は川向うの美濃領の墨俣に城を築くことに成功した。
そして博識高い竹中半兵衛を秀吉は三顧の礼で軍師に迎えた。
竹中半兵衛は西美濃三人衆の安藤守就の娘の婿だったことから
西美濃三人衆の安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄は信長についた。
あとは稲葉山城を落とすだけとなり斎藤龍興は降伏して美濃から追放された。
信長は美濃を岐阜と改め天下布武をかかげた。
稲葉山城は岐阜城となって信長の本拠となった。
そこへ越前の朝倉を頼っていた名ばかりの室町幕府将軍足利義昭が
信長に頼りたいと明智光秀をつかわせてきた。
信長はこころよくそれを受けた。