徳川家康読書記録  りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

全26巻 山岡荘八著 講談社 読破

下から書いています

徳川家康全26巻を読むのも4回目となりました。


■2023年5月12日(金)

「徳川家康 26」 山岡荘八著 講談社 読破

世の中から戦争がなくなることはないっと真田昌幸は言った。
関ケ原の戦い後、戦争は終わったと思ったが
大阪の陣はおこった。
しかし真田昌幸はすでに亡くなってていた。
真田昌幸から教えを受けた真田幸村が戦ったわけだが。
それに対して家康は泰平の世を築くと誓っていた。
秀頼をころしてしまったことが大変残念だったようだ。
家康は大坂の陣から1年たった1616年に亡くなった。
海外から伝わった天ぷらにあたったようだ。

  

■2023年5月8日(月)

「徳川家康 25」 山岡荘八著 講談社 読破

1615年、大阪夏の陣がはじまった。
豊臣側は大阪城の濠を埋められてしまったので討ってでることになった。
しかし、後藤又兵衛などの武将も相次いで倒れていった。
翌日、大阪城をまくらに真田幸村などが陣をしいた。
真田幸村の影武者が7・8人いたようだ。
関ケ原以来幸村についてきた家臣たちだった。
幸村を討たせないためではなく、方々で全員で攻め攪乱する作戦だった。
ちなみに家康の影武者も5・6人いたらしい。
これは家康を守るためだった。
とにかく情報戦だった。
誰々が寝返ったとか誰々の首をとったとか流言が乱れ飛んだ。
豊臣側もよくがんばった。
入り乱れて乱戦となった。
将軍秀忠の前まで7人が到達したようだが、
徳川家の師範の柳生宗矩に皆斬られた。
家康の本陣にも真田幸村が3度突入したが家康を討つことはできなかった。
家康の影武者は一人も残らずやられたようだ。
生き残ったのが影武者で本物の家康はやられたのかもと私は思っている。
真田幸村も力尽き、大阪城は焼けて豊臣軍は敗れた。
家康の孫で豊臣秀頼の妻の千姫が淀殿と秀頼の命乞いにいったが、
家康は助けようと思っていたが将軍秀忠はゆるさなかった。
淀殿や秀頼は命をたたれた。

  

■2023年5月6日(土)

「徳川家康 24」 山岡荘八著 講談社 読破

徳川家は豊臣家をつぶそうと思っていた。
家康は豊臣秀頼や淀殿をころそうとは思ってなかった。
ただ大阪城にいるのはおもしろくなかった。
奈良にでも国替えしようとはかっていた。
徳川家と豊臣家の仲が悪くなると
豊臣秀吉が築いた大阪城に浪人が集まりはじめた。
その数、15万人。
関ケ原で敗れて浪人していたものがたくさんいたのだ。
徳川側は30万の兵で大阪城を取り囲んだ。
豊臣恩顧の福島や加藤などは兵糧は融通してくれたが兵は出してくれなかった。
伊達政宗や毛利や島津も徳川側に加わって兵を出していた。
大阪冬の陣がはじまったのだ。
しかし、徳川側が大砲で大阪城を攻撃しはじめると
大砲に怖くなった淀殿はすぐ家康と和睦してしまった。
大阪城の濠(ほり)を埋めることが和睦の条件だった。
しかし外濠だけを埋める条件だったが内濠までみな埋められてしまった。
もう大阪城で籠城することはできない。
しかし家康が駿府に帰るとまた大阪城に浪人が集まり始めた。
家康はまた大阪城を攻めることになった。
大阪夏の陣がはじまる。

    

■2023年4月30日(日)

「徳川家康 23」 山岡荘八著 講談社 読破

豊臣家の大阪城には秀吉が集めた大量の金があった。
家康は金を使わせようと豊臣家に神社仏閣を作るように命じた。
豊臣家は秀吉を祭った神社を作ったがその鐘が問題になった。
国家安康 君臣豊楽という字が書かれていた。
徳川家は国家安康は家康の字を分断して呪っていると
イチャモンをつけたのだ。
豊臣家と徳川家の関係はいっそう悪くなった。
徳川家では豊臣家に三つの条件を出してその一つを実行しろという。
淀殿を江戸に送ることと大阪城を明け渡すことと
秀頼が江戸へわびに来ることだった。
豊臣家ではどれも受け入れることのできないものだった。
大阪城には金がある。浪人が集まり始めた。
関ケ原で負けて浪人しているものがほとんどだった。
真田昌幸は何年か前に亡くなったが真田幸村も大阪城に入った。
大阪側が勝てば浪人だった人たちが一躍大名になれる。
大阪城で籠城すれば、伊達政宗や毛利や島津が兵をあげるかもしれない。
旧教のフィリップ大王が軍船と大軍を送ってくれるなどどいう噂もあった。

  

■2023年4月24日(月)

「徳川家康 22」 山岡荘八著 講談社 読破

金山を取り仕切っていた大久保長安がしんだが、
調べてみると国に入れる金よりも
長安が着服していた金の方が多かった。
しかもあやしい連判状も出てきた。
家康が新教のウィリアムアダムスを重用していて
旧教側はおもしろくなかった。
旧教側は大阪の豊臣家について
家康に反抗して国を奪うなんて噂ももちあがっていた。
関ケ原以来、平和が10年続いていたが
きな臭い話になってきた。

  

■2023年4月21日(金)

「徳川家康 21」 山岡荘八著 講談社 読破

旧教のソテロは病院などを無償で作ったようだ。
そのソテロは伊達政宗の側室に外国人を世話した。
青い目で金髪だったらしい。
関ケ原以降、気概のある者ものといったら伊達政宗くらいになっていた。
秀頼が16才になったら豊臣家に政権を返すと
家康は約束していたがそれは守られそうになかった。
家康は淀殿を江戸に住まわせるか、
大阪から神社仏閣の多い奈良に移封しようとしたが
そんな話がまとまるわけがなかった。
淀殿と家康は家康が大阪城に入った折に関係があったといわれている。
21巻で1609年くらいまで進んでいる。
秀頼の成長が速いか家康がしぬのが速いかっといわれていたが、
家康がしんだら秀頼に眼をかけてくれる人はいなそうだった。
家康はかわいい孫の千姫を秀頼につかわせているのだ。
佐渡の金山とか金山の話が多く書かれていた。

  

■2023年4月8日(土)

「徳川家康 20」 山岡荘八著 講談社 読破

二代将軍秀忠と江がやっと男子を産んだ。
家光である。
1605年、家康は征夷大将軍を秀忠にゆずった。
豊臣秀頼が16才になれば政権を秀頼に返すと
秀吉と家康は約束したのだがそれは守られそうもなかった。
しかも家光が生まれた。
代々将軍職は徳川家が受け継いでいくことになりそうだ。
秀頼の母、淀殿はおもしろくなかった。
秀忠が上洛するのに秀頼も上洛するように家康は頼んだが
淀殿は受け入れなかった。
徳川は豊臣の家臣ではないかっという主張だった。
家康や秀忠が大阪城の秀頼にあいさつに来いというのだ。

スペイン、ポルトガルを南蛮人といい旧教のカトリックだった。
イギリス、オランダを紅毛人といい新教のプロテスタントだった。
何故、南蛮人や紅毛人が日本に来るようになったかというと
マルコポーロが日本のことを黄金の国ジパングと紹介したからであった。
1549年、いごよく広まるキリスト教と覚えたものだが
ザビエルはスペイン人だった。
初めはスペイン、ポルトガルの南蛮人が調子が良かったが
1600年頃になるとイギリス、オランダの方が調子が良くなっていた。
家康は日本に漂着した新教のイギリスのウイリアムアダムズを
三浦按針と名付け寵愛した。
1588年にイギリスはスペインの無敵艦隊を破り、
1600年には東インド会社を作っている。
とにかく新教と旧教の国は仲が悪く戦争ばかりしていた。

 

■2023年4月5日(水)

「徳川家康 19」 山岡荘八著 講談社 読破

1603年、家康は征夷大将軍になり江戸に幕府を開いた。
それでも家康は秀吉との生前の約束を果たして、
秀吉の子秀頼と家康の孫(秀忠の子)千姫を結婚させた。
秀頼は信長の妹お市の子淀殿(茶々)の子であり、
千姫はお市の子お江与(江)の子であった。
お江与(江)は二代将軍秀忠と結婚したのであった。
なかなか興味深い所である。
秀頼11才の時に千姫7才と結婚した。
秀頼は大阪城で女に囲まれて生活しており
すでに女を知っていたようだ。
淀殿は毎日酒びたりだったようだ。
まさに大阪城は魔の城であった。

 

■2023年3月26日(日)

「徳川家康 18」 山岡荘八著 講談社 読破

関ケ原の戦いがはじまった。
家康の東軍は7万5千人。
三成の西軍はなんと10万8千人。
家康の東軍が魚鱗の陣をしいてまとまって攻撃してきたのに対し、
三成の西軍は鶴翼の陣をしいてまわりからはさみこんでいく感じだろうか。
しかし西軍の山の上に陣取った武将たちは日和見をきめこんで戦いには参加しなかった。
家康の所領は280万石だったかな。石田三成は二十数万国くらい。
本陣の陣の数が違いすぎる。
魚鱗の陣で全軍で押していけば石田三成の本陣はすぐ破れるはずだと思う。
そして日和見していた小早川秀秋の裏切りで東軍の勝ちは決まった。
小早川秀秋は石田三成の讒言(ざんげん)で秀吉に50万石くらいあった領地を15万石にされそうになり
家康のとりなしで50万石にもどしてもらった。
だから小早川秀秋は秀吉の妻ねねのおいだったと思うけど
三成や秀吉に恨みこそあれ恩はなく家康に恩があったのだ。
小早川秀秋が裏切ったのは当然のことだったのである。
三成は逃亡したがつかまり首をはねられた。
大阪城に入っていた毛利は本領安堵ということで大阪城を家康に明け渡したが
120万石くらいあった領土を30万石にされてしまった。あとのまつり。
この時の恨みが明治維新の時に爆発する。長州藩だけど。

    

■2023年3月16日(木)

「徳川家康 17」 山岡荘八著 講談社 読破

石田三成を左遷(させん)させた家康は大阪城にのり込んだ。
秀吉の妻高台院(ねね)は自分が住んでいた西の丸を家康に明け渡した。
家康は大阪城で政務をとりはじめた。
前田家は前田利家の妻芳春院(まつ)を江戸に人質に出し完全に家康に屈した。
上杉家は越後から会津へ転封になったばかりだったので
会津で道を作ったり城を築いたり武将をやとったりしていた。
それが家康には上杉の反抗だと受け取った。
上杉家の直江兼続は直江状を家康に送った。
弁明かと思ったら痛烈に家康を批判したようだ。
家康が、これほど無礼な文は読んだことがないっといわれるような代物だった。
家康は上杉征伐をすることになり武将たちを引き連れて東へ向かった。
それを待っていたとばかりに石田三成が西から兵を上げた。
東軍の家康に対し、西軍の筆頭には毛利に立ってもらった。
だいたい東日本の武将は家康につき、西日本の武将は石田三成についた。
関ケ原の戦いがはじまる。

    

■2023年3月7日(火)

「徳川家康 16」 山岡荘八著 講談社 読破

秀吉が亡くなり日本は朝鮮から撤兵した。
朝鮮の最前線で戦っていた加藤清正らと
国元でぬくぬくとしていた石田三成などとはうまが合わなくなっていた。
秀吉が亡くなると家康は禁止されていた武将同士の婚姻を結び始めた。
奉行の石田三成は家康を糾弾(きゅうだん)するが
秀吉恩顧(おんこ)の武将たちは家康の元へ集まりはじめた。
石田三成も頼りにしていた秀頼のもり役の前田利家が亡くなり、
家康に怖いものは無くなってしまった。
石田三成は滋賀の佐和山へ身を引くことになった。
家康が婚姻を結んだのは加藤清正、福島正則、伊達政宗、蜂須賀など。

明が滅んだのは秀吉のせいだともいわれています。

 

■2023年2月28日(火)

「徳川家康 15」 山岡荘八著 講談社 読破

明国から「汝を日本国王に封ず」といわれ秀吉は怒った。
足利義満はそれで喜んだのだが。
秀吉は第二次朝鮮出兵をする。

秀吉は家康の子の秀忠に淀殿の妹を嫁がせた。
すでに3人と結婚しており子供を4人産んでいる。
何年か前にNHK大河ドラマでやったお江である。
秀忠の間に姫を産み、秀吉は秀頼にこの姫を嫁がせるように家康と約束する。

秀吉も弱って来た。
秀頼のもり役に前田利家になってもらって
五大老に、徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、毛利輝元、上杉景勝。
五奉行に、石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長塚正家。
秀吉は6才の秀頼に忠誠をつくすように何度も誓書を書かせたようだ。
そして秀吉は亡くなった。

徳川四天王は、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政。

納屋蕉庵は以前の竹之内波太郎。

 

■2023年2月26日(日)

「徳川家康 14」 山岡荘八著 講談社 読破

秀吉は千利休を切腹させてしまった。
千利休の茶道のわび・さびが
派手好きな秀吉には合わなかったようである。
秀吉は赤が好きで千利久は黒を好んだ。
秀吉は黄金の茶室を作ったりした。組み立て式で持ち運びもできた。
千利休の娘を秀吉が望んで断ったり、
貴人も通る寺院の門に千利休の木像を創ったり、
茶釜や茶碗に高額な金額をつけたり、
っといろいろ理由があるらしい。

1590年に秀吉が関東の北条を滅ぼして
秀吉の命令で家康が東海甲信から関東に移って来た。
1592年に家康が秩父神社を再建した。
1569年に秩父神社は武田信玄によって焼かれてしまったのだった。
家康も新たに移って来た土地だけあって人心掌握に苦労したようだ。
秩父も昔は秩父平氏とか結構な勢力があったようだ。

日本を統一した秀吉は中国を制圧しようとした。
日本にはもう褒美として家臣にやる土地がなかったのだ。
このようなことが書いてあった。
いま大明国をわれらの手中に納めておかないと
ヨーロッパの諸国がこれを分け取りにして
大明も高麗も日本も南蛮人たちにムチ打たれて
奴隷船に乗せられるときがきっと来る。
その先の先を見越しての催しなのじゃ。
明治維新の頃にもつながる考え方だね。

朝鮮出兵がはじまった。
秀吉は朝鮮は中国まで道案内をしてくれるものと
思っていたがそんなはずはなく抵抗を受けた。
李舜臣によって日本の舟は次々と沈めれれていった。
補給ができない。
和睦(わぼく)するしかなくなった。
朝鮮に中国からの援軍も来ていたし。

秀吉と淀殿(茶々)の子、捨丸は2才で亡くなってしまった。
秀吉の母の大政所も亡くなってしまった。
秀吉は悲嘆にくれたがまた淀殿が子供を産んだ。
拾いと名付けれれたようだ。秀頼である。
だがこの子は秀吉の子ではないようだった。
大野修理亮の子供ではないかと思われた。
秀吉はもう60才だし子種もなかったようだった。

  

■2023年2月20日(月)

「徳川家康 13」 山岡荘八著 講談社 読破

茶々に子供が生まれた。鶴松丸または捨丸と呼ばれる。
秀吉は茶々のために淀城を築き、茶々は淀殿と呼ばれるようになる。
秀吉は喜んだ。日本を統一したら中国まで支配下に入れようと考える。
秀吉と中国を戦わせてヘトヘトになった所をヨーロッパで分け取り、
などと南蛮人などは考えていたようだ。
尾張、中村の百姓の子倅が日本一の関白、太政大臣になっていた。
家康に嫁いだ朝日は京だか大阪に帰り病没している。
家康の子、秀忠が毎日、母上様っとあいさつに来てくれるのがうれしかったようだ。
北条征伐がはじまる。
小田原の北条は籠城した。
過去に10万の上杉軍が囲んでも落ちなかった城である。
しかし秀吉の軍はその桁がちがったようだ。
小田原評定などという言葉ができたのもこの時のことによる。
北条は滅び、東海甲信から家康が関東に移ってくることになる。
秀吉としては少しでも家康を大阪から遠くへやりたかったようである。
家康は江戸に拠点を築こうとした。
その頃は人もあまり住んでないさびれた土地だった。

   

■2023年2月17日(金)

「徳川家康 12」 山岡荘八著 講談社 読破

家康は秀吉の妹を三河に送っても家康は上洛してくれない。
秀吉は自分の母の大政所を家康の元へ送り
やっと家康は上洛してくれた。
やっと家康は秀吉に臣下の礼をとってくれた。
東の恐怖がなくなった秀吉は島津を破り九州まで制圧してしまった。
秀吉が九州までいってみるとキリシタンが
神社仏閣を壊していた。
日本でキリスト教が根付いてきていた。
秀吉はキリスト教が危ういと感じ伴天連追放令を出した。
宣教師、神父を日本から追い出す法令である。
スペイン、ポルトガルなどの南蛮人は
キリスト教を広めて植民地にするような政策をとっていた。
話は変わるが秀吉は茶々に手をつけたようだ。
秀吉の奥はねねがしきっていたが、茶々は受け入れがたかったようだ。

  

■2023年2月14日(火)

「徳川家康 11」 山岡荘八著 講談社 読破

大阪城を作った秀吉は是非家康に上洛してきてもらいたいと思った。
秀吉は結婚している40代の妹の朝日姫を
離縁させて家康の妻にしようとした。
朝日姫と家康が結婚すれば秀吉と家康は義兄弟だ。
家康も上洛してくれるだろうっと思った。
朝日姫の旦那は離縁されると自害してしまった。
なんとも胸糞悪いゲロゲーロな話である。
そしてそれは実行された。
石川数正は家康の元から出奔して秀吉についている。
人たらしの名人秀吉は言葉を巧みに使って噂を流し
敵武将を見方につけたり処分させたりする。
すでに家康の子、秀康を秀吉は養子にもらっている。
当時はそれを人質とよんだかもしれない。

  

■2023年2月13日(月)

「徳川家康 10」 山岡荘八著 講談社 読破

秀吉は1年で信長の領地をほぼ掌握してしまった。
岐阜の織田信孝は、秀吉に命ぜられたのか三重の織田信雄によって
切腹させられてしまった。
信雄は自分も危ないとみて徳川家康に助けを求めた。
家康は織田家を助けるために助けに応じた。
名分はできた。
これで秀吉と家康が戦うことになった。
秀吉の兵は5万、家康は2万くらいだったろうか。
家康は尾張の小牧山に陣取り持久戦となった。
秀吉は2万の兵に家康に気づかれないように岡崎をつけと命じる。
中入りと呼ばれる手だ。
しかし家康は秀吉の2万の兵を破り、
秀吉が気づいたときには家康は小牧山に戻っていた。
完全に家康が秀吉に勝った。
小牧・長久手の戦いといわれている。
しかし家康は秀吉を討って世を乱してはならないと思った。
秀吉を討てば日本中の大名を相手に戦わなければならなくなる。
秀吉で治まるものを乱世にしてはならない。

  

■2023年2月11日(土)

「徳川家康 9」 山岡荘八著 講談社 読破

謀反をおこした明智光秀を討って天下を握ったかに思われた秀吉だが
織田家相続で清須会議が開かれることになった。
柴田勝家は織田信孝を推したが
秀吉は信忠の嫡男の三法師を推した。
光秀を破った秀吉の成果が多く、三法師に決まった。
3才くらいの三法師は秀吉に抱かれ皆、三法師と秀吉に頭を下げた。
柴田勝家はおもしろくなく、秀吉に敵対した。
しかし柴田勝家の拠点は日本海側で雪が多く春まで出てこれない。
秀吉は岐阜の織田信孝や三重の織田信雄・滝川一益をあしらい
雪が溶けるとやっと柴田勝家が出てきた。
この賤ケ岳の戦いで秀吉は勝利し北の庄の城で柴田勝家は自害した。
柴田勝家に嫁いでいたお市も柴田勝家と一緒に自害し
3人の娘は城から落ちた。茶々などである。
秀吉の親友の前田利家は柴田勝家についていたが
秀吉に味方し賤ケ岳の戦いではやく退却して秀吉が有利になった。
そのお礼に秀吉は前田利家に加賀100万石を与えることになる。

  

■2023年2月4日(土)

「徳川家康 8 心火の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

信長は安土城に家康をまねいた。
接待役に明智光秀がなった。
ここで家康と光秀はかなりの話す時間があったはずだ。
光秀は信長に冷酷にされてきていて、
家康は長男の信康を切腹させられていた。
また信長の元へ毛利と戦っていた秀吉から救援要請が来ていた。
家康も秀吉の元へ援軍に行こうかと秀吉に使者を送ったと書いてある。
これは歴史的な事実なのか山岡荘八が考えたものなのか気になる。
光秀、家康、秀吉でなんか密計があったのかもしれない。
秀吉が毛利と和睦ができたのも出来すぎている。
そして光秀は信長に秀吉の援軍にいくようにいわれる。
援軍に行く直前の光秀は歌会で
「ときは今、あめがしたしる五月かな」っという歌を歌っている。
土岐氏の光秀が天下をとろうと謀反を決意した歌として有名だ。
光秀は1万の兵を信長の閲兵があるからと京へむけた。
敵は本能寺にあり
光秀は信長のいる本能寺に3千7百の兵を向け
嫡男の信忠のいる二条城に4千の兵を向けた。
信長の兵はほとんどいなかった。信長は滅んだ。
各地で戦っていた織田の武将たちは戻ってこれないと思われた。
光秀は安土城に入り、上杉、長曾我部、北条、毛利などに
使者を出したが誰が助けてくれるだろうか。
将軍宣下の勅旨にこだわりゆっくりしていた。
そこへ秀吉が異常な速さで毛利と和睦し中国大返しをやった。
安土城に招待された家康は京や大阪見物をしていて信長の訃報を聞いた。
家康は伊賀越えで苦労して三河に帰り8千の兵で上洛しようとした。
しかし秀吉が光秀を滅ぼしてしまったので帰還して
空き領地となっていた甲州、信州の制圧に向かう。
すでに三河、遠江、駿河を得ている。

掲示板では死という言葉が使えない。

  

■2023年2月1日(水)

「徳川家康 7 颶風の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

武田勝頼は徳川領の長篠を攻めてきた。
信長は2万の兵を率いて援軍に来てくれた
武田の騎馬隊は織田軍に突撃した。
その時、織田軍の三千丁の鉄砲が火をふいた。
次々と武田の騎馬隊がやってきて次々に鉄砲の餌食になった。
武田軍は壊滅した。
そして信長は信忠に家督をゆずり安土城を建てた。
信長は右大臣になっていた。
信長は武田と密通した築山御前(瀬名)を斬り、
奇行の多かった家康の嫡男信康に切腹を命じた。
家康はこれに応じて築山御前と信康を処分した。
家康は信長に従順だった。
信長と一戦するわけにもいかなかった。
それから信長・家康軍は甲府に攻め入り武田勝頼を滅ぼした。
すでに上杉謙信も卒中で亡くなっている。

  

■2023年1月29日(日)

「徳川家康 6 燃える土の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

家康は武田領だった長篠城を落とした。
同じ頃、信長は朝倉を滅ぼした。
そして浅井も滅ぼした。
浅井長政に嫁いだ信長の妹のお市と3人の娘は助けだされた。
木ノ下藤吉郎改め羽柴秀吉が活躍した。
お市の娘、茶々は後で秀吉の妻となる。
家康の長男の信康は気性が荒く、
妻の信長の娘徳姫の小侍従の口に刀を入れて引き裂いて殺してしまった。
また大賀弥四郎という者が謀反をたくらみ処刑された。
岡崎城に武田を招き入れるというものだった。
築山御前もからんでいたようだが。
信長がどうするか怖いね。

        

■2023年1月21日(土)

「徳川家康 5 うず潮の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

信長は朝倉領に攻め入ったが浅井が裏切った。
信長はあわてて京に退却した。
しんがりを家康が申し出てくれた。
秀吉もしんがり買って出た。家康を先に逃がす。
その後の浅井朝倉との姉川の戦いで
家康は6千の兵を率いてきて先陣を申し出た。
姉川の戦いで勝利するも浅井朝倉は比叡山に逃げた。
信長は比叡山を焼いたようだ。
そしてとうとう武田信玄が上洛戦を起こしてきた。その数4万。
信長は3千の援軍しか送ってくれなかった。
信玄は家康など無視して通り過ぎようとしたが
家康は意地で戦った。三方ヶ原の戦いといわれている。
信玄が魚鱗の陣をしき、家康は鶴翼の陣をしいた。
鶴翼の陣は厚みがなく薄く、家康は大敗北を喫した。
しかし信玄は病んでいて進軍も止まり病没してしまった。
信玄は秩父神社を焼いたから罰が当ったんだな。
家康の子信康のもとに嫁いだ信長の娘徳姫は妊娠していた。
しかし信康と母の築山御前(瀬名)は徳姫に冷たかった。
今川の血を引いてるせいか。
岡崎城に信康と築山御前がいて浜松城に家康がいるのだが
築山御前は岡崎城に武田を導き入れようとした。
信康にどこか一城もらい、築山御前は武田の武将の妻になろうとした。
家康が側室を作って築山御前の相手をしなくなったから家康も悪い。

  

■2023年1月17日(火)

「徳川家康 4 葦かびの巻」 山岡荘八著 講談社 読破

桶狭間の戦いで信長は今川義元の首をあげた。
岡崎城にいた今川の城代も逃げてしまった。
家康はやっと空き城になった自分の城の岡崎城に入ることができた。
家康は信長と同盟を結び今川の領地を浸食していった。
家康の妻瀬名と子供たちは駿府から助け出すことができた。
しかし瀬名は今川義元の姪であり何もかもおもしろくなかった。
そして家康は子信康の妻に信長の姫徳姫を迎えた。
築山御前(瀬名)は徳姫につらくあたった。
少し前になるが家康は三河の一向一揆に苦しんだ
家康の家来も一向一揆に加わるものもいた。
竹之内浪太郎が裏で糸をひいていて家康を強くするために
一向一揆をおこしていたようだった。
そして一向一揆をおさめると今川領を浸食していったようだ。
松平元康を徳川家康とあらためた。
信長は美濃を手に入れ岐阜と改名し
北近江の浅井に妹の市姫をとつがせて
足利義昭を奉じて三好を追い払い京に上洛した。
義昭を征夷大将軍にした。

  

■2023年1月14日(土)

「徳川家康 3 朝露の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

竹千代(家康)は14才で今川義元のもとで元服して
松平元信と名乗り、鶴姫(瀬名)と結婚した。
15才で祖先の墓参りとして一時岡崎へ戻って来た。
岡崎衆は大きく育った主君を見て皆涙をながした。
しかしすぐ駿府に戻らなければならなかった。
駿府には妻瀬名がいる。姫も産まれた。
尾張の信長は家康に子供ができたと聞き、
側室を3人増やして子供を産んだ。
弟の信行を斬り尾張を統一していた。
木ノ下藤吉郎(秀吉)も信長に士官をはたしどんどん出世した。
家康は松平元信と名乗ったが信が信長の字だと疑われ
松平元康と名前を変えた。男子も生まれた。
そして今川義元は信玄と謙信が川中島で千日手になっているすきに
上洛戦をおこした。兵数は3万とも4万ともいわれた。
家康は岡崎衆を率いて先陣をまかせられた。
尾張の信長は籠城と見せかけるために秀吉に味噌買いを命じた。
尾張の兵は3千しかいないのだ。
家康は前線の城を落とし、今川義元も安心しきって、
休んで酒などを飲んでいた。
竹之内波太郎が献じた酒や食べ物だった。
信長は今川義元が尾張に接近してきたと聞くや一気に攻勢に出た。
信長は城を飛び出し今川義元が休んでいるという田楽狭間を急襲した。
そして今川義元の首をあげた。
信長と家康が直接戦わないように裏で取引があった可能性もある。
前田犬千代(利家)が工作していたようでもある。

  

■2023年1月11日(水)

「徳川家康 2 獅子の座の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

竹千代(家康)は今川への人質に行くことになったが
どう間違えたのか、仕組まれて織田へ送られてしまった。
竹千代は織田の人質になってしまった。6歳だった。
信長が信秀に竹千代の命乞いをしてくれたようだ。
信長と竹千代の代になったら織田と松平と仲良くしようという考えだった。
信長が竹千代に眼をかけてくれた。
竹千代は小さいうちに母と別れ、6歳で織田の人質になり
そして父、松平広忠は亡くなってしまった。
岡崎城は今川にとられ岡崎は今川の植民地になってしまった。
そして今川の軍師雪斎が出てきて安祥城を落とし
そこにいた織田信広を虜にした。織田の長子である。
岡崎勢も最前線で戦った。
竹千代と信広を交換する腹だったからである。
交換が成立し竹千代は岡崎に戻ってくるかと思われたが
すぐ今川への人質として駿府に送られることになった。
竹千代は8才になっていた。
家康ほど苦労した人もいないだろうな。
しかし今川義元の姪で鶴姫(瀬名)、亀姫(椿)にかこまれ
うらやましいくらい楽しくやっていたようである。
雪斎から学問も教えてもらえたようだ。
織田家では信秀が亡くなり家督相続争いがおきた。
信長は信秀の葬式にかぶいた恰好で遅れてきて
位牌にむかって香を投げつけて帰っていった。
皆、家督を継ぐのは行儀の良い信行良いと思った。
柴田権六(勝家)は家督を信行に継がせようと謀った。

今は天子にたてついた足利将軍の滅びる夕暮れとすれば、
次に興るものは勤王の朝と見通される。
それで織田信秀はわざわざ京の天子に献金なされ
ありがたい奉書までいただいた。
それだけでなく熱田の宮にも伊勢の大神官へも
莫大な奉納をつづけさせられる。
このかげの軍師が熊の若宮、竹之内波太郎である。
1巻で随風という僧がでてくる。のちの天海である。

  

■2023年1月10日(火)

「徳川家康 1 出生乱離の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

徳川家康全26巻を読むのも4回目となりました。
読みきるかはわからないけど。

家康の父松平広忠の時代から物語ははじまる。
岡崎城にいる広忠は東の今川家についていたが、
西の織田家に圧迫を受けており、
織田側の刈谷から妻を迎えた。於大である。まあ政略結婚である。
家康の祖父清康は強くて有名だったが父広忠は弱かった。
於大と広忠の間に子供がうまれた。
この子が家康である。幼名は竹千代。
寅の年の寅の日の寅の刻の生まれであった。
家康が1592年に再建した秩父神社に虎の彫刻があるのは
このことが由来だといわれている。
左甚五郎作の虎の彫刻も改装されて綺麗になったので
秩父神社にきたら是非見て行ってもらいたい。龍の方が有名だが。
竹千代が清康のような強い主君になってもらいたいと皆が期待した。
織田家と今川家の争いが激しくなると於大は離縁され刈谷にもどった。
日の出の勢いの織田信秀と名門の今川義元の争い。
戦国時代、松平家の岡崎城は織田家と今川家にはさまれていた。
竹千代の運命やいかにっといったところ。
竹千代が生まれた年、信玄は22才、謙信は13才、信長は9才であった。