良太の思い出 2015年1月更新 りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

2000年6月22日、23日作成
2000年頃にはじめて小説みたいなものを書いてみようと思って書いたものです。
もっと長かったんだけどはぶきました。つたない文章だな。。。処女作かな。。


その子は4歳までは普通に育っていた。
幼稚園で視力検査をやった。
その子の視力は0.1だった。
そのことは親に通知されあわてて眼医者にかかった。
先天性白内障だった。4才まで眼の悪いことにもだれもきづかなかった。
水晶体(レンズ)がうまれつき白くにごっている眼の病気だ。
にごっているので眼がねをかけてもみえないし、なおることもない。
その時点で手術をすることにした。
でも手術で水晶体をとってしまうので、
牛乳便のそこのような眼がねをかけなければならなかった。
親はそんなかわいそうなことはできないといって、手術をしなかった。
みえないのもかわいそうだとおもうが。。。
小さなうちに手術をしないと大きくなってからだと神経の関係で
視力はでないともいわされていたのだが。。。
視力0.1だが、薄暗い部屋で照明がつく視力検査機なのでそれだけみえていたが、
白内障の場合、明るいところだと極端に視力が低下する。
昼間の外では0.01もなかったろう。
その子は手を望遠鏡みたいにまるくして眼によくあてていた。
みんなはそれをおかしがって、そんなことしてもみえるわけないといったが、
それをやると光が入ってくるのがすくなくなるため、
0.01が0.1くらいまでみえたのだ。
久那小学校の間は差別されることもなく、0.1でもなんてことなかった。
たのしい日々だった。
ある日、父親の会社の娘○おみちゃんに会社の近くの小学校に、
姉とあそびにつれていってもらった。
○おみちゃんは、まわりのこに、「この子とあそんであげてね。」といった。
おおがらな男の子がきて、「俺が案内してやる」といって、
ジャングルジムなどの施設を「俺についてこい」といって全部案内してくれた。
でもひとつだけ案内してくれないものがあった。
滑り台だ。超長い滑り台だった。
「あの滑り台はこの学校でも俺しか乗っちゃだめなんだよ」そのこはいった。
でも、姉はすでにのっていた。
しかし、超ながいためすごいスピードがつき着地に失敗して大泣きした。
眼のわるいこは「姉のかたきをうつんだ!」といって滑り台にのった。
おおがらな子は「あいつもなくぜ」といってわらっていたが、
超スピードから着地のところををジャンプして足をそろえて着地した。
おおがらなこは「すもうやろうぜ」といってきたのですもうをとった。
目の悪い子は体もすごく小さくて整列のときも一番前で2人目より20センチも
ちいさいくらいだった。超ちいさかったのだ。
しかし目の悪い子は簡単におおがらな子に足をかけてなげとばした。
「しんじられねえ」「もいっかいだ」おおがらなこはいった。
でもまた目の悪い子は足をかけてころがした。
この小学校では足をかけることをしらないらしかった。
眼の悪い子の学校では毎日プロレスごっこばかりだったのでおてのものだった。
ある日どこかの小学校からあそびにきたひとたちがいた。
ボスは○太郎といった。
眼の悪い子は俺のことだが、かきづらいのでここから俺とかきます。
俺は、○太郎はなんどもきたが、眼の悪い俺は○太郎だといつもわからなかった。
でも、かえるを失神させる方法とかおしえたり、さびついた滑り台にのる方法おしえたり
やご(とんぼの幼虫)のとりかたをおしえたり。いっぱいあそんだ。
そのうち○太郎もあそびにこなくなった。
けどこんどは、影森小のボスとかいうひとがきた。
影森小といえば、こないだちがう小学校からあそびにきたひとに石をなげて、
石が頭にあたってその子は植物人間になったときいていた。
そのことをはなすと、「植物人間になったのか」といって
あおくなってかえっていった。石をなげたのは本当だったらしい。
学校でも影森小の話をきいて、「石をなげてはいけません」と注意した。
俺は久那小では変態ぶりを発揮した。
でもそれは眼のわるいことをわすれようとして変態な行動をとっていたのだろう。
親はなんでこんなバカな子が生まれちゃったんだろうと思った。
親以外のみんなもそうおもった。
中学校にはいった。
小学校まであまりいわれなかった眼のこともけっこういわれるようになった。
体育のサッカーとかで俺はボールみえないのでたってるだけだったんだけど、
負けたときはいつも俺のせいにされた。体育がいちばんいやだったな。
でも部活は卓球にはいった。
卓球は室内で夕方からやるので玉も結構みえた。苦労したけど。
なにしろジャンケンするときの相手の手もみえなかったからな。
でもレギュラーにえらばれて、秩父郡で優勝することもできた。
しかし、眼のほうはこのころからどんどんわるくなっていった。
なにしろ道をわたるときに車が見えなくて車の音をきいてわたるのを判断してたんだ。
国道140号もそうやってたから、いまかんがえると信じられんな。普通なら死んでるな。
眼が悪くても、ばかにされたのは体育のときくらいで、
あとは、そんなでもなかったな。
でも、体育で水泳とマットとマラソンと体力測定のときは通信表は5だった。
バレーのときは2だった。ボールみえなかったからな。
あとはサッカーばっかりだったけど、おれのせいでソフトがなかったらしい。
眼のせいでくやしかったせいか勉強はかなりした。
学年1番をとったときは、小学校の先生がつたえきいて、みんな泣いた、
と後輩からきいた。
高校入試、俺は眼がわるいので机におおいかぶさってテストをいつもうけていた。
それがカンニングしてるとおもわれたらしい。
帰ってきて親がどこかによばれていた。警察らしい。
そのときニュースや新聞で埼玉県北部のトップクラスの高校でカンニングがあったこと
をつげた。点数もかなりの点だったという。
俺のことだったらしい。俺は200点満点中、180点とったからな。
小論文が満点の場合だけど。
中間や期末試験のようなせまい範囲のテストならカンニングできても、
入試でカンニングできるわけはない。
しかし、無事高校進学できた。
秩父高校にはいると知らない人に、「おまえ、久那のめくらか?」ときかれた。
俺のことだとおもったが、とぼけて、「なにそれ?」というと、
「久那のめくらってすげーやつがいるんだ。なにもみえねーんだけど、
なんでもわかっちゃって、すげーつよくてこわいやつなんだ。」
はなしがとんでもないことになってた。
俺は、「しらねーよ。だれだよ、それ」とうそぶいた。
部活は卓球にはいった。1年では1、2をあらそっていたが、
眼の手術をすることになり一年間でやめた。
バクテンは小学5年でできたのだが、あたまをいちどうち小6からやらなくなっていた。
卓球部のとなりに柔道部がありそこのマットで練習してまたできるようにしておいた。
あらたにバクチュウもおぼえた。
高校2年の夏休みに目の手術をした。
もう、歳がおおきくなっていたので手術しても視力がでるかわからないといわれていた。
でも、0.7までみえるようになった。
0.1からくらべると夢のような世界だった。人の顔もはじめてみた。
いままで1色だった木が葉っぱ一枚一枚みえた。そんなこともしんじられなかった。
自分の顔もはじめてみた。変な顔だったがこればっかりはしょうがなかった。
それまで、毎日のように女の子に「おはよう」といわれていたが、
だれからいわれてるのかもわからず、返事ができなかった。
よく男にもシカトしたろといわれたが、おれにはみにおぼえのないことだった。
それがいちばんつらかったな。
これからは、あいさつもできるとおもったが、0.7でもあまりみえないものだった。
手術した夏休みがおわってすぐ修学旅行があった。
それまではどこにいくのにも見えなくて不安だったが楽しい旅行ができた。
みんなの前でバクテンをやったりした。
また、いままでいやだった球技大会もおもしろくなった。
サッカーもおもしろかったが、バスケットのハーフタイムショーで
バクテンをやったりした。体育館中アンコールでわき、バクテンやりまくりだった。
俺は有頂天になっていた。
しかし、そのころから科学?化学?の授業で遺伝のことをまなんだ。
そこで眼のわるいのは遺伝するとおもった。そうだとおもうが。
俺はすごく苦労したから遺伝するのなら子供は生めないと思った。
眼の悪い子供ができたらかわいそうだ。
俺は結婚することができないし子供も生めない。
それから女とはなすことができなくなった。
女をすきになってはいけないし、すかれてもいけない。
それが核心だったのだろう。よくわからんが。
おはようといわれても、うつむいてうなづくだけになっていた。
ただ、はずかしがりやにもなっていた。
眼がよくなって高校2年になって思春期がきたのかもしれない。
眼がよくなったのに、女の子と話ができなくなっていた。
それまでははなしていたのに。
古い話だが中2のときは女の子から7枚くらい年賀状がきたものだ。
俺の価値観だからわからんが、みんなはもっともらってたかもしれんがわからん。
手術する前は一番前でも黒板も見えず、勉強はおちこぼれていた。
中学のときは参考書とかみて独学でなんとかやれたんだけど、
高校ともなると範囲がひろすぎて独学ではついていけなかった。
ファミコンブームがきたのもいけなかった。毎日おそくまで友達の家に集まって、
ファミコンばかりやっていた。
ファミコン合宿とかいって人に家にとまってばかりいた。
高校3年になり、○井君と友達になった。
毎日お昼を一緒に食べていろんなはなしをした。
そのうち○井君は南小の番だったといった。
小学校時代はいろんな小学校へあそびにいっていたことをはなしてきた。
影森小にいったら石をなげられて頭蓋骨に穴があいて一ヶ月も入院したそうだ。
俺はおもいだした。植物人間になったとつたえられたのは○井君だったのだ。
おもしろいものだ。世間はせまいんだな。
そのうち、初恋の人の名前をいった。
○田の○おみ。
○田の○おみ。。。
俺はなにかをおもいだした。
俺は意味もなく「あたまいてぇ」といって笑った。その言葉はどういういみかわからん。
○井君は「やっぱり良太じゃないみたいだ。」といって涙ぐんでいた。
俺は家に帰ってづっとかんがえた。
○田の○おみの、「の」とは俺のオリジナルだったのだ。
○田○おみではなく、○田の○おみ。
南小の番、、、昔○おみちゃんこと○田の○おみにつれていってもらった
小学校がやっと南小だとわかる。。。
超ながいすべりだい。確かに南小だ。
そこで、俺は、「○田の○おみ、○田の○おみ」、といいながら、
○おみちゃんのスカートめくりをしていたのだ。
すもうをとった子が○井君だったのだ。
それだけではない。いろんな学校にもあそびにいっていた。
久那小にもきたという。そのときやっと○太郎という名前をおもいだした。
○井○太郎だったのだ。
「おまえ、久那のめくらか?」「久那のめくらっていうすげーやつがいるんだよ」
あれは、○太郎がひろめたものだったのか。
○太郎はづっと俺のことをおぼえていたのだ。
それから○田の○おみのことにはふれず、○太郎とはよくあそんだ。
俺が昔のことにきづいたことをうちあけぬまま。
高校3年の12月親父が事故で死んだ。。。



ノンフィクションだったのだけど、
最近、南小にバイクを止めて芝桜を見に行ったのだけど
滑り台はそれほど長くなかったなぁ。。。
名前を○でごまかしたらわけがわからないな。。


眼鏡のレンズの厚さを強調するために牛乳瓶の底のような眼鏡という表現をつかったけど実際は凸レンズです。